LEGEND
 スロバキアのヴルコリネツ村は町から十キロ少ししか離れていなかった。もちろん重なり合う山の奥だから交通は不便だ。狼猟師の村としてユネスコの世界遺産になっている。日本でも古い神楽や芸能が伝承されているがそれは山奥ばかりで行われるのではない。祭りを支える経済基盤と、人が交流しあって文化が深まる流通路が必要だ。しかしヴルコリネツは完全に行き止まりり村で、何かを創造し発信してきたというより、その名前の通りの狼狩りの猟師の村という、里人の畏怖が伝統を存続させてきたのだろう。狼は牧畜の敵であるから、それを狩る仕事は尊重されるが畏怖もされる。しかも狼には怪異があり狼憑きもあれば狼男もいる、悪魔の仲間を狩ることは人並みの男にはできない。
    細道でかろうじて結ばれた丘の上に集落がある。誰が立てたのかトーテムポールのような韓国の天下大将軍のような木彫りの像がいくつか立っていた。ふつうの人が住んでいる所なので観光客は歓迎されない。ここはプライベートだから写真を撮るなという札も掲げられている。小さな民俗博物館には小さい部屋、小さいベッド、小さい炊事場が保存されている。そんなつつましい生活が日本人の観光客にまで覗かれてしまうのは嫌だろう。自然は美しかったし子どもたちも清々しかった。世界遺産にならなければ誰も訪れなかったのに、トゲが一本刺さった気分で村を離れた。多分、村には語られない歴史があり、村を離れることはないと判断された身内の者だけが知っている話もあろう。
 ドラキュラの城も白昼行けば館という方がふさわしい小さな城だ。敵を串刺しにしたという伝説はオスマントルコに同じことをされた報復なのだから味方が怖れることはないのだが、少し度が過ぎたし異教徒と同じことをしてしまったのだ。
 熊男も樹の男もいて四旬節になるとぞろぞろと森から降りてくる。キリスト教以前の世界は怪奇と恐怖に満ちていた、教会がいくら説得しても奇怪な祭りをやめようとしない。それを聖人と結びつけて取り込んで教会の祭りにしてしまったのはお手柄だ。
LOST
 忘れ物に気づく、家を出て空港に行くまでの習慣だ。まさかパスポートやカメラを忘れることはない、お醤油パックがあった方がよかった、箸と爪楊枝は、洗濯干しの紐は、次々に思い出す、なくても困りはしないのだが喪失感はある。
 スケジュールをわざと忘れてくるという大胆な手がある。予約したホテルやチケットを出たとこ勝負でつないでいく。なまじ計画を立ててその通りにならなくてストレスを起こすより、臨機応変に旅した方が思わぬ拾い物があることが多い。計画通りに旅ができてよかったというのはツアーの添乗員のセリフだ。
市内バスの中が温かくてウィンドブレーカーを脱いだ。うとうとしたら運転手がバス停を教えてくれたのであわてて降りた。ウィンドブレーカーが席に残り親切な運転手へのプレゼントになった。あの顔、いまだに覚えている。
 パスポートの入ったバッグをバスの網棚に忘れた。真っ青になって追いかけて信号待ちしていたバスに追いついた。必死の形相に運転手は驚いて扉を開け、無事にバッグを取り戻した。客と運転手が笑ってくれた。
 ホテルの冷蔵庫に飲みかけのボトルを入れておいて忘れる。良いワインなら見栄のはりがいがあるのだがスーパーの特価品では格好がつかない。おまけにチーズとハムの食べかけが残っていると余計にわびしい。
 待合室に日本語のガイドブックが置き忘れているのを見た。持ち主はきっと焦っているだろう、まして一人旅だと、だが置いておくしかない。ただ、どの国でもツーリスト・インフォメーションは充実していて地図もホテルリストもそろっている。持ち主は逆境をチャンスにして自由に旅することができただろうかか。
 必ず忘れてきた方がいいものがある。それは旅の恥だ。帰ってから人を笑わせるようなアイテム以外は忘れてしまおう。 
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