MARKET
 世界最大と地元が誇るのがイスタンブールのグランバザールとソウルのトンデムンシジャンだが、市場で売っている物は住民のニーズに応じているので規模の大小にかかわらずそんなに変わりがない。すさまじい鼻の刺激、目には色鮮やかな布と衣服、切開かれて吊るされた肉、魚、そして鍋から立ち上る湯気などが世界標準だ。
   音の刺激を楽しみたければモロッコのスークがいい。ロバが鳴きロバ引きがわめき水売りがじゃらじゃら通る。世界最大の迷路というフェズのスークでは路地裏で職人が叩き削り擦り歌い、奥のモスクで祈る声が角を曲がるたびに渦巻いてくる。
   ジャワやバリではパサールというが刺激は強い。ヤキトリ・サティを焼く匂い、熟れた南国の果物とジャスミンの香り、そして甲高い歌声、ガムランの響き、雑踏を抜ければさわやかな風とカエルの鳴き声、楽園の出入り口を感じる。
   東欧・ドイツでは町の中心にマルクト広場、つまり市の立つ広場がある。木立の下にベンチがあり噴水またはその残骸があったりする。昼は眠っているが夜は華やかだ。テラス席に酒と料理とコーヒーが明るい灯に照らされ子どもが走り回り大人が談笑する。ブロックいくつか離れた宿を取るといい、喧騒と光に背を向けてオレンジ色の街灯の下を歩いていくと枯葉が音たてて追いかけてきたりする。
   ミャンマーのヤンゴンやボルネオのクチンのマーケットも強烈だ、人間のむき出しの生活がある。キタナイ、クサイ、ウルサイのそろいぶみで野菜と果物と肉と魚すべてが熟れすぎ崩れかけ、蒸し暑い風に悪臭を委ねている。足元は汚水でぬかるみ、市場だけはゴムゾウリで歩くものではないと思い知らされる。
日本だってアメ横とか築地場外とか世界に名高いイチバがあり、その隣にはギンザという取り澄ました街もある。これも世界標準に達しているだろう。
MARRIAGE
 ケルン近郊のアウグストゥスブルグ館でウェディングドレスとタキシード姿のカップルを見た、モデル撮影でもなさそうだ。近づいてみると中国人、こうして写真に残すのがスティタスになっているらしい。ドイツの結婚式では陶器のコップを割るのが習慣だそうだ。カップルの割ったコーヒーカップも中国製だったかもしれない。  
   花嫁花婿姿のモデルがホテルや公園でPR写真を撮っているところを見かける。撮ってもいいかと聞くと、モデルはOK、写している方はだめという、確かに金を出して雇ったモデルを勝手に撮られては損をする。
   トルコのホテルで中庭をリボンと風船で飾ってパーティの準備をしている。聞くと若い男が中指に指輪をはめる動作をして笑った。英語を話さなくても仕草で結婚式だと分った。ようやくうす暗くなって白いドレスと黒のタキシードの花嫁花婿が現れた。儀式は指輪をはめるだけ、コラーンの斉唱もなく卵を潰すとか米を撒くとかもなし、トルコは建国以来、イスラムを国教としていない。配られたのはコーラとがさがさしたお菓子だけ、その代わりプレゼントやご祝儀を渡す人もない。押し出しの立派な男が出てきて歌い始めたのでダンスが始まった。風船売りがテーブルを回って子どもたちの関心をひく、さっき街角にいたままの姿だ。さっきの若い男が一緒に座ろうと手を取って自分のテーブルに連れて行ったが同席の年寄りが難色を示した。男は仕方なさそうにウインクをするのでもとのテーブルに戻った。その老人が帰るやいなや男は迎えに来た、彼の誠意と面子を立てたのだ。
    インドの地方都市の場末、3階立てのアパートの一画に人が集っている。うながされて階段を上ると宴会、芸人が笛と太鼓を鳴らし太ったご婦人が歌っている。突然、叫び声が聞こえてきれいなサリーの娘が抱きかかえられて上ってくる、花嫁だ。新郎が迎える、歌は一段と高い声になる。花を渡したり火を回ったり複雑な儀式があってその歌い手が指導者になる。年収の三分の一という莫大な費用をかけるのだが、それでも貧しい人たちはこの程度の結婚式しかできない。しかし皆が心から祝っていてうれしかった。
MIDDLE AGES
 中世の館や城をホテルにしたポウサダという施設がある。外観は中世で内側は現代、設備もレストランもきわめて快適、料金も素晴らしく高級、中世は手の届かない世界だ。 
トルコのエディルネでキャラバンサライ「旅商人たちの宮殿」に泊まった。砂漠を旅してきた人たちの求めるものがすべてある。冷たい水、やわらかいベッド、家畜と離れた居場所、警戒や恐れのない熟睡。敬虔なムスリムでも必要とすれば酒と女の用意もある。けれど、そこにはサライの豪華さだけはない、ただの安宿だが手の届く中世だ。
   アダムが耕しイブが紡いだとき、貴族はどこにいたのだろう、中世のイングランド農民はそう唄った。封建制の暗黒時代で人々は土地に縛られ搾取されて惨めな暮らしを強いられていたと歴史は教える。戸棚がなくて長持ちや櫃に物をしまっていた、敷きっぱなしの藁や毛皮や絨毯にはダニやノミがたくさんいた、寝巻きの習慣がなかったので人々は裸で寝た、ぜんぶ日本と同じだ。騎士たちは干し肉や干し魚を香草で煮込んだ味の濃い料理を食べ通風になった。日本でも食材こそ違え短命だったのは変わらない。しかし日本も世界も1年中たくさんの祭りがあって儀礼と饗宴で生活を潤し閉塞感を解消していた。旅する人もたくさんいたし武士道も騎士道もロマンチックな物語をたくさん残した。フェスティバルを見にいけば土地の人々とともに中世を味わうことができる。
    たとえ電化製品があっても精神生活は古い時代のままという人たちに会える。オーストラリアのアボリジニは広大な土地に孤立して生活するので太陽光発電の無線機を使って会話をするし夜は発電機を動かしてビデオを見る。しかし夢では父祖と語り合う。死後も子孫と夢で会うことができる。絵を描き、物語を絵解きしながら精霊の世界に入っていく、ドリーミングというそうだ。アボリジニの子どもは自分の神話を持ち、成長につれて物語を伸ばしていくという。たぶん中世の信仰・精神生活もそんなふうで、たとえ文字を持たなくても豊かで満ち足りた生涯を記憶していったのだろう。
MONASTERY 
 チェコのオロモウツ村の午後、街路で年配の夫婦と若い修道女が歩いてくるのとすれ違った。老人が提げているきれいな箱はお菓子なのだろう、いとしい娘を修道院に入れて気の抜けたような毎日を送る両親、面会日に田舎から出てきてつかのまの団欒を喜ぶ、そんな家族の物語を思った。
   アルルの街で曲がり角から自転車で飛び出してきた、灰色の服とスカーフ、黒い靴の見習い修道女だった。手にフランスパンを持ちリュックを背負っている、鮮やかな笑顔を残して走り去っていった。いかにも明るく活発なお嬢さん、理由があって修道院に入ったのだろうか、ウエットな思いつめた感じはまったくなかった。ここにも物語、女子修道院はC0VENTというそうだ。
ギリシャのアトス山に行った。ここは厳重な女人禁制で動物も雌はだめというが船では遊覧ができる。小さな桟橋に次々に着岸して修道僧を降ろしていく。彼らには俗世と縁を切る悲壮な決意が感じられる、中には一生を漁師で終わる修道僧もいるそうだ。
    いわゆる小乗、上座部仏教では出家することは兵役のように男の義務だから寺院は修道院を兼ね常時たくさんの修道僧を抱えている。西寧のラプラン寺で儀式が行われていた。本堂のお経が終わると300人くらいの修道僧たちが一斉に外にとび出しておしくらまんじゅうを始めた。ナツメの実を食べたりぶつけあったりして遊んでいる。そのうち偉そうな坊さんが石段の正面に座り修道僧を整列させてなにやら唱え、ひとしきり済むともっと偉そうな(僧衣に錦がついていた)坊さんがもう一段高い壇に座ってなにやら唱え皆が唱和する。新彊から来たという少しだけ英語を話す女性が「活仏」だと教えてくれた。共産党はダライ・ラマを追放したがこの寺の活仏は許しているようだ、たぶん都合がいい人物なのだろう。1時間ばかりで集会が終わり皆はドヤドヤと部屋に帰っていった。巡礼たちは儀式に少しも関心を示さずマニ車を回転させ本堂を回り続けている。大乗のように他力本願ではないのだ。確かに荘厳とか随喜の涙とかを感じさせない儀式だった。  
MONEY
 EUはすばらしく便利な制度だが一つだけ残念なのはコイン集めができなくなったことだ。リラ、ペセタ、サンチーム、ドラクマなどという小銭はいい土産になった。
 深夜早朝には銀行が開いていない空港が多い、自動両替機もないとバスに乗れない。ドル札を出せばなんとでもしてくれる都合のよい国もあるのだが多少高くつく。
グルジアがジョージアになったばかり、日本円はまだ認知されていなかった。ユーロをあまり持っていなかったので滞在費が足りない。首都なのだから絶対あるはずだ、あちこち聞きまわってようやく裏通りの銀行で日本円を扱うことが分った。ギリシャまで両替に行かなくてすんだ。
    スペインの山奥の銀行で日本円をユーロに代えた。やにわに分厚いカタログのような世界通貨帳を出してきてページをめくり、これかと聞く。確かに一万円札がコピーされているのだが印刷が悪く貧弱でいかにもケチくさい。きれいで紙質のいい本物を渡すと、それがニセではないか疑って長時間待たされた。
観光地には両替屋が並んでいる。少しずつレートが違うのがご愛嬌だ、ガソリンと同じで1円でも安いのを後から見つけると悔しくなる。闇両替はインフレの国には必ずある。ルーマニアのドラキュラ城の近くで上品なお婆さんに声をかけられた。邸宅に案内されてお茶がでる。何ドルか換えてくれないか、ホテル代とか土産とか買うつもりで額が大きくなった。新聞で換算率を確認してから家を出て行く、近所に借りにいったのだ。ルーマニア・レウを渡しながら深く感謝された。留学している息子に仕送りしなければならない、レウでは通用しないしインフレだからすぐに価値が下がってしまう、そういうことだった。
観光客を受け入れたばかりのミャンマーも混乱していた。札束をゴム輪でしばって5センチくらいの厚さが1ドルだった。ビニール袋に詰め込んで買い物にいく、なにしろ汚くて模様も何も確かめられないが平気でやりとりしている。とても土産にできるような札ではなかった。
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