VEGETARIAN

 エコノミークラスのミールはチキンかビーフかフィッシュだけ、事前にオーダーもできるが美味しい物が出てくることはない。帰り便で隣りあわせたアメリカ娘が皆より早くミールをゲットした。記名のあるパックに蒸した米と野菜とトマトだけドレッシングもついていない完全菜食だ。「ティスティ?」笑いながら声をかけると厳然と「ノー!」。日本に着いたら美味しいベジ食が何十種も選べるよ、Ohファンタスティック。彼女はチーズとナッツをつまみにワインをガブガブ飲んでいる。宗教的規制ではなく自制ただの思い込み、なぜ肉を食べないのなどと聞くと延々と理屈がつくので面倒だ。過激な菜食主義をビーガンというそうだ。
 金曜日はミールが魚から先になくなる。自分は戒律を守ったという満足感を味付けにして不味い魚を食べる。遅れたキリスト教徒は言い訳しながら美味しそうに肉を食べる。宗教の食べ物規制は理屈ぬきだ。 
ヒンドゥの常食は豆と野菜とミルク、食堂のメニューには麗々しくナントカカレーの写真が並んでいるが注文しても「ノー」の一言だけしか出てこない。しかし、たとえ肉と魚があっても保管・衛生・調理すべての面で食欲がわいてこない。だからカレー臭満々のベジタリアンになっているのがベターだ。
 世界中どの国にも中華料理がある、まことにありがたい。モヤシとネギとごま油がどの野菜もすべて料理にしてくれる。
 もちろんグルメを気取らなくても野菜はどこでも美味しい。イタリアではカリフラワーの生かじり、トルコの茄子の煮浸し、ボルネオの春菊の油いため、日本の家庭料理と同じ味だ。しかし、生で食べて病気の不安におびえることのない地域はそう多くない。
日本の菜食者たちは美味しい物を食べ、食べることに満足し、長生きしている。仏教信奉者と僧侶の努力のおかげだ。きっと世界のベジテリアンとは人生観が違うだろう。
                                   写真はエストニアの家の軒先
VENDOR 行商
 ソウルの地下鉄にはまだ行商人がいる、これは一種の文化財だ。スーツ姿の男がカバンから商品、便利小物や歯ブラシなどを取り出し乗客のひざに置いていく。大声で説明、感心させたり笑わせたり、一通り終わると商品を回収する、欲しい人は金を出す。長距離路線だと何人もやってくるのに商品が重ならないのはきちんとした組織があるのだろう。
 貧しい国では商品も貧しい。パッケージの角が擦り切れたガムなどを持ってくる。赤ん坊を抱いた母親にはホロリとするし、屈強な若者が威勢よく入ってくると失業率の高さを思ってしまうが購入する気にはならない。
 南米のバスには音楽家が乗り込んでくる。ギターや民族楽器を鳴らしながら歌う、通路を往復してひとくさり、そこは渋滞場所なので一曲まるまる演奏する。なにがしかの小銭を集めて降りていく。少女、青年、老人、それぞれがふさわしい楽器を手にしている。
 大道芸を見せるのもいる。信号待ちしている車にジャグリングやトンボ返りをしてみせて小銭を求める。猿回しもくる。手さばき鮮やかに手品を見せたりする芸人もいる。タンゴを踊るカップルもいた。
 レストランも楽師の稼ぎ場だ。日本人と見極めるとサクラサクラとか上を向いて歩こうスキヤキソングなどを演奏する。チップをもらうまで演奏するのでボーイがニヤニヤ笑って早く小銭をやりなよと合図する。
 停車している間にガラスを拭こうとする、 新聞をワイパーにねじこむ。商品を持たない子どもは汚れた手と顔をガラスに押し付けて物乞いをする、こんなことも野放図だ。
 映画の寅さんのように行商しながら世界を回れないかと思ったことがある。何か軽い物でそこそこの値段、ちょっと珍しい、あれば便利だと思ってしまうような物、団扇を第一候補にした。丸竹、紙、水彩絵具それだけでいい。白紙を貼ってササッと絵を描く、似顔でも山水画でもいい、デザインが選べて飾っておける、3分で代金引換、どうだろう。ただ、そういう日本人にまだ会ったことがないから何か支障があるのだろう。
                       写真はインドのテキヤ 大道芸で客を集める
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