WAIT AT
  時間前に出発することは絶対にないと分かっていても、飛行機は乗り込むまで不安が続く。早く早くと気がせいて飛行場に行くと確かにチェックインが早ければ多少は席に融通がきき通路側とか前後の席をなどとリクエストできるのだ。昔はCAさんが他の客に頼んで家族が一緒になれるように気を遣ってくれたのだが、コンピュータの座席管理が厳重になって今はできない。
 飛行場が近ければ荷物を預けてからまた町に遊びに行くことができる。韓国の大邸は空港ビルの外がもう町だから、歩いて戻って一杯やってまた帰ることのできるうれしい飛行場だ。
アルバニアの空港バスは安かった、50円足らずだ。ホーチミンの空港も近いのだが渋滞がひどくてうっかり車では出られない。羽田空港を喜んでいる外国人は多いだろう、なにしろ交通至便で時間が正確だから。
 鉄道駅で待つのは辛い、始発でさえも遅れることが多い。食べ物、飲み物をしっかり確保して、駅員が近くにいるベンチに座り掲示板をにらんでいるより仕方ない。入線直前にプラットフォームが変わることも多い。その代わりドアを開けてすぐに閉めるようなせっかちな列車は少ない。ぞろぞろと移動し、のろのろと乗り込む乗客たちを悠々と待っている。
 ホテルを最大に利用してもいい。チェックアウトまで部屋にいて出発時間までロビーにいる、荷物を置いて町にでかけることもできる。
インドのホテルは24時間制が多い。夕方6時に入れば翌日の夕方6時のチェックアウトまで24時間いられる。もっと滞在したければ半日分ずつ料金を追加すればいい。
 安全で広々していて野良犬や誘拐や物売りなどに脅かされない場所、子どもを放し飼いにしておけるところはやはり空港だ。イミグレを通ってしまえば、追いかけっこ、最初の一歩、階段でチヨコレイト、隠れんぼ、なんでもできる空間が広がっている。精一杯、体を動かさせて飛行機の長い窮屈な時間をぐっすり眠って過ごさせる、こういう戦略だ。
                               写真はインドの駅
WHERE ARE YOU FROM
 聞かれた時はTOKYOと答えるのがてっとりばやい。USがロスとかワイオミングとか、UKがウェルズとかグラスゴーと答えるのと同じだ。昔はチャイニーズと名乗っていた人も今は自信満々でタイワンと答える。ごくまれにはEUと答える奴がいて、よくEUよ(言うよ)これは駄洒落。
「どこだと思う」と言い返したら「フランスか」と言われたことがある。女房は喜んだが、考えてみればベトナム、タヒチ、アフリカと旧フランス植民地は数知れず、事実、今のパリの地下鉄はそういう世界だ…残念。
 我々は韓国、台湾、ベトナム、タイ、フィリピン人の顔を見分けられる。日本人もそれらの国のどこかにいそうな顔をしている。中国人の顔も北、南、西くらいの区別がつく、それは中華街の屋号のおかげだ。欧米人は一切が?だ。WHERE ARE YOU FROM、どう間違えられても仕方ない。
 ちかごろ日本の観光地はたくさんの中国人に辟易しているようだが二昔前にはパリもロンドンも日本人観光客に悩まされた。その一昔前はアメリカ人旅行者だった。19世紀には大陸旅行のイギリス人ツアーがパリを襲った。水の流れるように人は移動する。ローマは鉱山を求めてスペインとイギリスにまで侵入し、フン族とモンゴルとトルコは富を求めてヨーロッパを襲った。ジプシーは飢えを満たすために武力によらずに侵入してきた。違和感のある服装、おそろいのバッグ、母国語の会話、かたまって行動するスタイル、加害者はやがて被害者になる。ようやく日本もそうなったのだと思って受け入れるしかない。
 関西弁は買い物に便利だ、東京言葉ではきつくて怒ったように響いてしまう、関西弁なら交渉しやすい。おっちゃんな、これまからんか、まけときぃーな、こう言えば相手も商売をしている感じになる。いいやんけ、なあ頼んます、商売、商売。照れたり、はしたない気持ちにならずにすむ。
                                   写真はバリの夕暮れ
WORRIED くったく
 アイルランドの小さな町で雨に降られた。夏のヨーロッパは外が明るくても店やレストランは時間通り閉まる。ようやく明かりを見つけて覗くと若者が3人立ち飲みしている。メニューもないので指差してピルゼンを取った。金色に輝く透明なビール、フェルトのように密な泡、ジョッキが口から離れなくて、とうとう一気に飲んでしまった。店番の若者はニコリともしない。客も無視する。この屈託した空気はなんなのだろう、若い失業者は生活を持て余して出稼ぎ帰りはストレスをためている、そう何杯もビールを飲める金がなかろう。重い空気の中にピルゼンだけ輝いていた。
オーストラリア北部のパブでアボリジニの家族がスロットマシンで遊んでいた。つまらなそうに無表情で画面を見ている。彼らアルコール分解酵素を持っていないので少しの酒でも泥酔してしまうそうだ。アボリジニはララキアの旗を立ててこの国を取り返す、左右に血の赤、真ん中の黒は民族、黄色い大地に一本のバンヤンの木が三つの葉を広げているそんな旗だ。前日に海岸を散歩していた夫婦も語気強くそう言った。雨季になると道路にワニが泳ぎだし町は孤島になる、今はその少し前だ。アボリジニの屈託も重い。
廃墟の青空の下でも息苦しくなることがある。そこを往来した人々の思いが残っているからだろう。平穏な日、栄華の歓喜に混じって無慈悲で残虐な行為もあったろう、そんなことが頭をかすめると身震いがでる。
 世界はどこの街角にも屈託があふれている。子どもが重い顔つきをしていると胸がしめつけられる。貧困、病気、暴力、差別、苦悩から絶望へ移る前にと思っても何も出来ない、通り過ぎるだけで切ない。
ただ祭りの日だけは旅人の方が何をWORRIEDしているんだ楽しみ喜べと言われてしまう、だから祭りは好きだ。旅人だって非日常を求めてほつつき歩いていると無愛想な顔になっていることが多いのだろう。
                              写真はトルコ・ブルサの公園
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