Z00
 子どもも大人もZ00を喜ぶのは動物の奇妙な姿に目を見張って、人間で良かったと思うからだろう、少し前までは見世物と呼ばれた。旅先でも奇妙な文化に接すと目を見張って何これと言う、それは猛省したい、文化は見世物ではない、なるほどと感心して受け入れたい。ともあれ旅先でZ00に行くと気分が和らぐのは人でなく動物と接するからだ。人と人との間には緊張感がある。
 サンディエゴの動物園は二階建バスで巡る。子ども目線ではさぞかし邪魔なオリや柵がなくてサファリ気分が演出される。当然、まったく安全なので緊張感は薄くなる。本物のサファリはいつ何が飛び出すかもしれないからドキドキするし何も飛び出さないので飽きてくる、という臨場感にあふれている。
象やラクダは家畜だから使役して楽しむ、背中に乗ってジャングルや砂漠の旅を模擬体験する。しかし油断するとアルパカがツバをひっかけたり猿が帽子を盗ったり実体験をさせられる。ワニやコブラのショーを拡大すれば闘牛になる、もはや観客は見るだけだ。
ヨーロッパの動物園はどこも施設と世話が行き届いてサービス満天だ。喉が渇いたらカフェ、腹がへればレストラン、雨が降ったらミュージアム、どれも大人の規格だ。アジアの動物園は気候風土そのままで緑濃い柵の中のどこに動物がいるのか探してしまう。加えて草むらから毒虫や毒蛇がでないかとビクビクする。中国は町角どこのとも同じスローガンがあふれているので動物たちまで啓発に協力しているような気分になる。
 狭いオリの中を一日中ぐるぐる回り、寸時として怖ろしい人間の匂いと視線から逃れられない、動物のストレスはたいへんなものだろう、それに鈍感なものほど長生きするのだろう。そんな感想を子どもに言うと「動物園の動物ってかわいそう」と言い返してくる。安易にうなずいてはいけない「では、なんでみんな見にくるの」と攻められる。人がいっぱい来ると動物たちもうれしいんだよ「喜ぶのは園長さんでしょ」ずっこけのZOOだ。
                           写真はガンジス河岸
ZZZ
 子どもはよく眠る。車の中でも飛行場でも退屈になると、暖かくてお腹が一杯なら、安心して眠る。
一人旅、トルコの田舎、安宿が混んでいた。相部屋ならOK、隊商宿の頃から当たり前の習慣だそうだ。先客の黒ヒゲの男がベッドから立ち上がって握手してきた。見ず知らずの男が二人では会話もない。それにイスラムには同性愛者が多いのだ。寝る時間まで外で過ごして部屋に戻った、男はもう熟睡していた。夜中に突然電灯がついた。飛び起きるとヒゲ男が自分のベッドの上に座ってしきりに土下座を繰り返している。窓の外からは大音量でスピーカーが鳴っている。つまり一日5回のお祈りの時間なのだ。田舎は信心深いのでお祈りの時間も長い。習慣には従わなければならない、仕方なく真似をする。怖ろしいことに夜明けにまた祈りの時間がある。世界中のイスラムが同じ時間に祈りを捧げる、これは壮大な連帯感だ。もちろん日の出日没を基準にするので世界中に時差がある、そんなことはコロンブス以前から承知しているのだ。
 断食月ラマダンになると一日中、水も飲めない。毎朝夕のスピーカーががなりたてるアザーン祈祷の声は束縛と解放の響きそのものだ。期間中、長距離バスに乗れば文字通り固唾を飲んで待つ人々が同乗している。ラジオを聞き窓の外をにらんで日没を待つ。時至る、子どものように歓声を上げて水を飲みお菓子を食べ心からうれしそうだ、一日戒律を守った喜び、それ以上に食べる喜びだろう。新妻のキスはラマダン違反、老妻のキスはおかまいなしという冗談がある。
アザーンを唱える男たちは声自慢・節自慢だ。毎年、世界アザーンコンテストがあり優勝者が讃えられる。その年はインドネシア人だった。ともかく宿では塔ミナレットの見えない部屋を求めるのが安眠の秘訣だ。塔には必ず大音量スピーカーがついていて夜中に自己陶酔しているようなお祈りの声を聞く必要はない。
                               写真はイスタンブールの郊外
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