インドネシア

トラジャの葬式

 信頼できる観光案内所と聞いたので行ってみた。小さな雑貨屋に小さな看板、中はデスクが一つ、奥の居間から中年のオジさんが出てきた。早速、あちこちに電話をかけて今日は二つ葬式があるという。一つは近いからテペテペで行かれる、もう一つは昨日フランス人を乗せてバイクで行ったが途中でコケてしまったから嫌だという。一日のガイド料は2千円、男は気軽に服を着替えてリュックを背負い、さあ行こうという。雑貨屋でタバコのカートンを買う。出てきた老人はどうも父親らしい。テペテペで十分も走ってすぐ降りた。田んぼの間の道を行く、この辺は刈り入れと田植えを並行して行う、雨季が終わるまでの作業だ。農家はどれもトンコナンハウス(舟型屋根の家)だ。
 今日の葬式は水牛7頭豚百頭という、それほど規模の大きくない葬式だそうだ。水牛は喪主が用意する、豚は近所、知り合いが香典として持ってくる。あとで別の集落を訪れたら水牛40頭が準備されていた。カーストの高いお婆さんが11月に亡くなって半年、ようやく葬式の準備ができた。お爺さんは何年か前に亡くなったが水牛25頭、今回は40頭になったという。棺を置くトンコナンハウスが新築され、広場を取り囲んで桟敷が作られていた。豚は数百頭になるという。
 道は昨日の雨でぬかるんでいる。やがて泥田の中を歩くのと同じになった。抜き差しならなくて、ついにサンダルの鼻緒がもぎ取られてしまった。
竹林の中の急斜面を登ると広場を囲んで桟敷があり赤い幕で飾られている、床の上にたくさんの人が座っている。一番はしっこの桟敷に案内されて座ると、すぐに黒い喪服を着た賢そうできれいな女性が挨拶に現れ、丁重に礼を言ってコーヒーとお菓子を勧めてくれた。親族のお嫁さんで持参したタバコのお礼だそうだ。亡くなった老人には十人の子どもがおり中には公務員もいて集落では羽振りのいい方だった。葬儀は今日が二日目、昨日は水牛1頭と豚を数頭殺した、今は水牛6頭を殺し終わったところだという。来る途中、牛が低くうなり、豚がキーキー叫んでいたのは断末魔の声だ、広場は血で覆われ6頭の水牛は放射状に並べられていた。
裸足の男たちが刃物で牛を解体する。ヒズメを切り落とすと待ちかまえていた子どもたちが取り合う、玩具にするのだそうだ。みるみる皮がはがれて白い脂肪がむき出しになる。腹を割くとふくれあがった胃が、胃を割くと噛み砕かれた緑の草があふれ出す。刃をぬぐいながらそれをつまんで食べている。水牛たちは直前まで飽食させるのだそうだ。けっして労働はさせない、ひたすら葬式のために養われる。水牛も豚も買ってくるのだそうだ。6日おきに水牛市が立ち、角が大きくて優美な姿のが高価だ。豚も2才のメス、肉が柔らかくて姿がいい。竹でくくられて観念したのもいるし騒ぎ立てている未練ものもいる、どれも腹に持参した者の印がスプレーで書かれている。豚は広場では殺さない、式場の外のヤブで頚動脈に刃を当て、その場で毛を焚き火で焼く。水牛の解体は実務的に進んで、肉は客に配られる。煙草1カートンのお礼は二キロくらいの塊だった。内臓を竹串に差して焼いて食べている人もいる。毛布のような皮はなめすためだろう引きずられていった。頭が飾られると、正面の桟敷に喪主と主賓たちが集まって祈りが始まる。死者はクリスチャンだった、ジェマート・イソン・カルアという戒名が花と十字架で飾られている。たぶん聖書の一節なのだろう、土地の言葉で早口でマイクで祈り、別に拝むわけではなく手も合わせず聞いているだけだ。たぶんセレモニーは屠殺で祈りは付け足しだけなのだろう。桟敷の人たちもぞろぞろと帰っていく。ちょうど昼、儀式は午前中にするそうだ。帰り道の泥には血が混じっていた。豚はまだ殺され続けている。
 人々は黒の礼服を着ているが普段着の人も多い。客は多い方がよくて、異国から来てくれたことを喜んでくれる。これだけ壮大な葬式をするのだから墓も独特だ。トラジャは北から海を渡ってこの地に来たという伝承を残している。彼らの住むトンコナンハウスも船の形だ。死者は焼かない、地に埋めない。岩に穴をあけて棺を納める。その前にタウタウという死者の人形を置く、今は写真に代えることも多くなった。高温多湿の地だから死者はすぐに白骨になり棺も朽ちる。それは放置する。墓穴は狭く次の死者の棺が納められるとそれで一杯になる。昔は海底だったのだろう石灰岩があるるむ海に生きた人たちは土に対する思いがあって死者を地に埋めることができなかったのだろう。死者の穢れを地に移したくなかったのか、または地に埋められてしまうと死者の甦りに支障ができるのか、または人と獣に踏みつけられる地の底に死者を埋めたくなかったのか、どれかは分からない。
 乳飲み子が死ぬと樹葬をする。白い樹液を乳に見立てて幹を削り赤子をうずめ織物で覆って葬る。十分に乳を与えられなかった母親の無念の気持ちと愛情だ。樹に抱かれて赤子は安らかに眠り、やがて再生していくのだ。優しい気持ちだ。 

トラジャの田舎の結婚式

 田舎の村落にはどこも集会所があり葬式・結婚式をはじめ多目的に使われる。ヒンドゥの僧侶や牧師が儀礼を行う、イスラムと同じく誓いの言葉が宣言するだけらしい。同じような正装で、披露宴でも指輪交換をし写真撮影をする、つまり宗教による違いはないということだ。宗教の独自性を示されては多民族多宗教の隣人と気楽なつきあいができない。
 国は五つの宗教を公認しており、信仰を強要されることはない。学校でも子どもは自分の信仰以外の行事を押し付けられることはないという。ただし夫婦それぞれが違う宗教というのはダメ、インドネシア女性と国内で結婚するのはハードルが高い。
 新郎新婦は友だちの運転するレンタカーで式場を出る、花飾りはつけているがひどいぬかるみだ、たちまち車は泥だらけになる。それも普通のことだろう。
 


ジョクジヤの都会の結婚式 イスラム

 都会にも結婚式場はないのでモスクや教会のホール、ホテルを会場にする、ハレの場所にふさわしくモールや花が飾りつけられる。新郎新婦は薄茶や緑の詰襟のスーツと金をあしらった華やかなドレスを着て、刺繍の布を肩にかけた正装だ。叙事詩マハバラタの王と王妃のような冠をつけているのは、羽織袴、内掛け角隠しの殿様ご守殿さまに変身する日本と同じだ。両親も詰襟とドレスの正装だが装飾は少ない、勲章でもあれば最上だ。衣装はほとんどがレンタルだという。
 式は政府宗教省の役人の前で誓いの言葉を言うだけ、指輪を交換しご馳走を食べる披露宴がメインとなる。写真撮影も必ず行う。


ガルンガン バリ島のお盆行事  ヒンドゥの祭

 お祭りの形態が日本とまったく同じなことに驚かされる。ヒンドゥの寺院は日本人の感覚で神社に近い。境内には様々な末社が祀られお供物が供えられている。祭司はブラフマン=貴族階級だが村には非ブラフマンの祭司も多く日本の神主と同じ働きをしている。祈りを捧げ境内の維持管理をし祭りを司る。
 朝から獅子舞が出て村を浄めて回る、聖獣バロンの縮小版だ。赤い顔で大きな目を剥き金色の飾りだけが日本の獅子と違う。
 神社の参道には高い竹を立て飾り物が風にひらめいている、ここに先祖の霊が降りてくるのだという。高く盛り上げた神饌を頭に載せた女性が参詣してはて供え物をする。
 お神輿が出る。浜降祭と同じように浜辺に集合し海に入る。ケンカ神輿もあるそうだ。
 夜になると集落ごとに唄と踊りの供宴となる、直会と同じだ。ただここは詰襟とサロンの正装が求められるので行きずりの観光客は入れない。明るい灯の下で少女から老女まで踊りを披露するのを遠くから見るだけだ。
 
 

バリの民俗舞踏