タイプーサム
セレンバンはタイプーサムと春節の最中でデパートにはちゃちなステージと音響設備を置いており公園にもテント張りの舞台ができている。演し物は獅子舞と歌謡曲だ。
タイプーサムのステージはインド系の男女の歌手で、しなやかにボリウッドを披露したり、声量を誇って長く声を轟かせている。見物人はことごとくインド人だ、原色の長いサリーやパンジャブ風のズボンを履いて激しく明るく輝いている。
春節のステージには中国人の歌手がでる。きれいなドレスを翻して西欧の歌を中華風に味付けして歌う。少数民族衣装の娘たちが派手に踊る。司会も歌も見物人もすべてが中国語を話している。別のビルでは「ミスチャイナタウン」セレンバン予選だ。各地で選抜されたミスは春節最後の日にクアラルンプルでお披露目されるそうだ。
公園ではマレー人の女が歌っている、ファドだった。マレー語のファド、灼熱の太陽の下で恋や人生の苦悩、失ったものへの愛惜を若い娘がシャイに唄う、もちろんノーアルコールだ。大航海時代にはスペイン人もやって来た、ここではスカーフを被ったマレー系の女しか歌わない。
ここは政治的にも先住民を尊重する他民族国家だ。マレーの先住民オランアスリは山に引っ込み少数になったが浅黒い顔で短躯、腕が長く唇が突き出ていて古代を思わす人々だ。山の停留所からバスに乗り込んできた老人に運転手は敬意を表して前の良い席を確保してあった。
イスラムは民族の習慣と宗教に寛容だ、冷淡といってもいいだろう。所詮、文明に遅れた異教徒たちだ、頑迷な彼らに言う言葉はない、税金さえきちんと払えば好きにさせておこう。だからヒンドゥがタイプーサムをしようが中国人が春節をしようが構わない。頬も舌も鼻も金串を差し、背中の皮膚にフックをかけ裸で行進する、体中に針金を刺す、鞭で我が身を撃つ。巨大な山車をつくり、時によっては歓喜のあまりその山車の下に身を投げて死ぬという。そんな野蛮をヒンドゥならやりかねないと冷ややかに無関心なのだ。
すべてはコラーンに書かれている。モスクの隣がヒンドゥ寺院でその隣が中国人の廟であろうともかまわない、門の中が清浄ならば外はゴミ捨て場でもいいのだ。モザイク国家といっているが信仰は三色しかないし境界線がはっきり引かれている。イスラムは国教なので中国人街にもインド人街にもモスクがある。しかしその隣の赤く塗られた廟、玩具のような神像を飾りたてたヒンドゥ寺院ではそれぞれの言葉で祈りが捧げられている。共に相容れないから逆に共存できる社会だ。イスラムは豚肉を食べ酒を飲む中国人街をいやがる。香辛料の匂いとお香の匂いでむせるようなインド人街をいやがる。だから住まないし行かないというだけなのだ。
イスラム教徒同士は通婚する、ましてハーレムのある宗教だ。マレー人はアラブ、ウィグル、アフガン、ペルシァ、トルコ、アフリカ人と結婚できる、海峡を隔てたインドネシア人とは兄弟同然だ。
中国人は混血しない、先祖代々の系図と墓があるからイスラムなどが入るとややこしくなる。ヒンドゥもしない、先祖代々のカーストから外れてしまうからだ。