台湾


花蓮 アミ族各集落 スケジュールがwebに載る

 アミ族は台湾最大の原住民で18万人余り、花蓮がホームランドだ。オーストロネシア系だと言うが、祭り衣装は雲南の少数民族と似ている。海岸に住んでいるのは、後発の移住民なので先住の民族を山に追い払った結果らしいという。
 豊年祭は輪になって踊る盆踊りのようだが、はるかに活発で陽気だ、河内音頭の楽しさだろう。元はアワの豊作を祖霊に感謝し初穂を捧げる儀礼だったが、それを何日も続けていくうちに歌と踊りがメインになった。
観光客大歓迎の所も多くて飛び入りを求められる。日本語を話す長老が多いので来賓席に招いてくれる、そして酒とご馳走。近くの民宿にでも泊まれば二重に温かく接待してくれる、まるでお盆に帰って故郷の祭りに加わっている気分が味わえる。
 テレビの27チャンネル現住民族電視台を視聴しよう。アナウンサーやレポーターもそれらしい人がそれらしい衣装で、ニュースも原住民関係を先行させる。隣のチャンネルは客家テレビ、これも中国からの移民だが中華の仲間にはならず、野球スタジアムのような円形の集合住宅を作り自分たちのテリトリーを外部から遮断している。中国にも香港、マレーシアにもある。踊りや歌や芝居など民俗芸能を放映している。客家は世界中、同じ言葉で同じ文化を持っているが、原住民は言葉も生活も部族による違いが大きい、テレビは相互理解に役立っているだろう。スポンサーは政府でマラリア予防や結核対策のスポットPRがしきりに入る、一種の教育放送だ。
 台湾には原住民が30万人いるのだそうだが血をひくものはもっと多いという。その原住民という言葉だが…日本ではもはや抵抗感がある言葉になった。しかし台湾では先住民というと漢人になる。明の遺民たちは台湾でオランダの植民地建設を打ち壊し漢人による台湾を作った。もちろんその時にも原住民はいた。日本に亡命した朱舜水は江戸幕府のブレーンとなり水戸学を起こした。近松門左衛門は人形操り「国姓爺合戦」を創り、物語の主人公の和藤内・鄭成功は見事に清軍を破った。
 幾星霜、国共内戦に負けて逃げ込んだ蒋介石を台湾人は支援した。しかし、国民党政府が国連加盟し戦勝国側になると、先住の漢人を日本への協力者として差別するようになった。その結果、台湾には支配者の本省人、被差別の本島人、先住民で非漢人の原住民という三層社会が生まれて今に至っている。
蒋介石の後継者蒋経国はギャングと呼ばれた人物だった。しかし李登輝のおかげで台湾は民主社会になった、工業立国して繁栄している。しかし大陸への不安はまだ続いている。
 

ツォウ族マヤスビ 戦祭り

 祭りは火を運ぶことから始める。先祖代々から伝えられた火だ。祭りの運営にあたる、いわば頭家の5家から酒と肴が献上される。粟の酒でしつこく甘くべとつく酒だ。祭儀は高床式のクバという大きな小屋で行われ女子と部落外の人間は立ち入りが厳しく禁じられている。石で土台を築いた炉の上には常時火が燃えている。
 階段をすぐに登ったところに首棚がある、狩った首を祀り豊作、豊猟を願う。
 松明を手にした娘の先導で戦士たちが広場に入ってくる。祭司に仕える処女なのだろう。クバで祝言を受け酒を酌み交わして一同は広場に降り立ち祭儀が始まる。豚が運び込まれて殺され、戦士たちはヤリや山刀で豚を突いて血をつけ行進して広場中央の神木ガジュマルの枝に血をこすりつける。
 祭司が別の木によじ登り、東西に伸びた一本ずつを残して枝を払う、神の降臨を迎えるためだ。戦士が歌い始める。朗々と「命の喜び」を歌い上げるのだそうだ。歌詞の間に囃し言葉が入って途切れることなく続く。隣同士が手を交差して握り合い全体が三日月型になってゆっくりと踊り回っていく。
 ひとしきりすむと女たちが輪に入る。同じような曲調が合唱はいよいよ大きくなる。
 来賓席には伝統的な飾りつけをした部族が並ぶ。高雄のツオウ族が一番遠くて、あとは近隣のツオウ族だそうだ。祭儀の最後に来賓全部を交えて友好と連帯の踊りがある。  
午後はグランドに場を移して余興になる。伝統的な踊りもあれば歌謡曲に合わせて踊る若者もいる。応援したり冷やかしたり和気あいあいだ。昔は男女出合いで求婚の歌垣だったのだろう。
 夕刻になると踊りと歌が始まる。太い丸太を燃やして朝まで踊り続ける。あいにく当夜は夜半から豪雨になって中止になったが、焚き火だけは守られていた。
 このへんの人も日本語を話す。大柄のお婆さんが寄ってきて日本の童謡を口ずさむ。小柄なお婆さんが台湾語で話しかけてきて通訳させる。私は子守ばかりしていたのでとうとう日本語を習うことができなかった、妹は幸せだと言っているらしい。つまり二人は姉妹で、大柄な妹は日本語が話せてうらやましいと小柄な姉が訴えているだ、二人ともくったくなく笑いあっている。
 踊りの列を抜け出てきて隣に座ったお婆さんは見た目50才、かと思ったら70才だった。だいぶ酔っている、日本語が使えるのでうれしくてしかたない、わたしはキミコと何度も言う。日本語はこんなに優しくて丁寧なのに北京語は騒々しくて下品だという。ゲストハウスのお婆さんはハルヨだった。1970年代から換金作物として茶が導入された。それ以前は林業、阿里山鉄道は材木運び出しのために作られた。しかし生活は苦しく出稼ぎが常態だった、それで親密感のある日本に行く。ツオウ族はもともと海洋民だったが追われて山に入り漁業が狩猟となった。田んぼを持たないので定住の必然はなかった。 

布農族各集落 射耳祭

 布農プノン族は台東の山地に住み、焼畑で粟を育て、山で狩猟採集をする。射耳祭は2才を越えた男の子が鹿の耳を矢で射るイニシェーションだ。これを通過すると部落の構成員と認められる。だからそれ以前に死んだ子は村の墓地には葬られないという。
 祭のために猟師は山に入りキョン、台湾の小型の鹿を獲ってくる。暑い土地なのですぐに解体し塩をまぶして燻製にする。焚き火に生木の枝をかざしてもうもうと煙を上げ、ザルに乗せた生肉をあぶるとすぐに赤黒い燻製ができる。皮は固く肉は筋張っているが噛みしめると味が出る、米のドブロクにピッタリだ。これは携帯食にもなり竹筒飯やチマキとともに猟師の食をつないだのだろう。
 聖地の丘の上で秘密の儀式をすませて、古老と壮年と子どもたちが空砲を撃ち鳴らし歌いながら祭場に降りて来る。山刀を腰に、ほとんど手作りの単発銃を持った猟人たちは勇壮というより荒々しい。
祈りのあとに崖に埋め込まれた扉が開かれる、中には鹿の頭骨が吊るされている。焚き火が起こされ生身の鹿が解体されて炙られる。空砲が定期的に撃たれる。ドブロクが竹筒で供せられ、肉が人数分に切り分けられて分配される。マッチ棒のような木の枝がいわば引き換え券で本数の分だけ肉が配られる。すぐに食べ始める、山の民は躊躇ない。猟人は鹿の頭の剥製を甲のように被っている。それが自慢で頼めば被らせてくれる。
儀式が終わると一同は広場に移動する、扉は開いたままだ。広場の入り口には焚き火が消えかかっていて、全員がその炭を一つ指でつまんで投げてから入っていく。
 広場の片隅に屋根も壁も草で覆った小屋があって、中には燻製肉が広げてある。男たち全員が小屋の前で輪になり手を組んで唄う、世界に名高い布農の合唱だ。最初は低く地鳴りのような音が響き、だんだん高く大きく幾重にも重なり合った音の波が引いては返すように押し寄せてくる。それがいよいよ迫ってきてまるで津波のように途切れることなく轟然と覆いつくしていくとプツリと終わる。裸足の山人、日焼けした荒々しい男たちの素晴らしい迫力だ。
 今年は5人の幼児が矢を射た。目の前ほんの1メートルの所に鹿の耳の図案のような絵がおいてあるだけだ。二人は泣き一人はいやがって逃げ出そうとするのを母親が必死になだめている。一人はどうしても矢を射れなくて古老が代わりに投げた。
 小屋の中で来賓が挨拶する、といっても布農の言葉が呪文のように唱えられ女たちも取り囲んで聞く。もう一回、広場の真ん中で合唱、そして踊り。座り込んだ男の輪の回りを少女たちが跳躍する。
 見物人たちにドブロクと鹿の燻製が配られる。観光客は少ない。
 アトラクションになる。小さい子どもたちはニワトリ捕まえ、パチンコ、弓矢、大人は丸太切り、鉄砲、弓矢だ。賞品は洗剤などで微笑ましい。
 鉄砲競技になる。竹ざおの先に風船をつけ30メートルの距離で撃つ、命中すると風船が破裂し中の水が流れる。鉄砲は例の手作りだ、弾を筒先から入れてカケヤで押し込み、ビンから火薬を引き金の手前に注ぎ、さらに発火薬を注いで指でぎゅっと押さえ込み蓋を閉じて打つ。その都度、音も威力も飛ぶ方向も違うのでなかなか命中しない。誘い出された白人の男が見事的中させて皆が踊りだして喜んだ。たぶん兵役経験があるのだろう。
 それが終わって大宴会になった。行政の集会所だろう椅子とテーブルを並べてブュッフェの食事だ。ありったけの郷土料理が並んでいて部落の全員が一堂に会して食べる。挨拶しあったり話し込んだり誰もうれしそうだ。
 実はこの部落の少し先に日本軍の大砲と砲台が残っている。布農族の反抗に手を焼いて一部隊を派遣し、ここに基地を作り大砲を二門設置した。狙いははるか先の向陽山、三千メートル級の高山で布農の聖地だ。ところが大砲は日露戦争の分捕り品でナポレオン時代そのままの8センチ野戦砲、射程は谷を隔てた山道までというお粗末なものだ。しかし音だけは大きいので聖地に向けられた大砲は弓矢の猟人を脅かすくらいの役にはたったのだろう。
 ホテルにはかけ流しの温泉がある。つり橋を渡ると渓流もある。

小琉球迎王慶典

 この近隣の各地に王爺迎船焼などの文字の入った祭りがある。3年毎くらいに行われる大変に費用のかかる祭事だ。疫病除けの道教の祭りで最終日に船を燃やして村々の疫病を天に戻す。そのため船は信者たちに引かれて村々を巡航し疫病を積み込んでいく。土地の神々の神輿が銅鑼を鳴らして先導し、爆竹で道を浄めながら連日、行進していく。花笠と旗を立てているので遠くからでも行列が分るが、何より爆竹の音と煙は隠れようがない。
社会主義中国では失くしてしまったが台湾には昔ながらの祭りがいくつも残されている。祭りの日には境内に芝居小屋が建ち一日中、神様に向かって芝居を演じる。男女の歌手が流行歌、だいぶ昔のを歌っている小屋もある。露店の賑わいもある。
 小琉球へは高雄の先の東港から船が出る。ここの港の食堂で冷凍ではない生マグロが山盛り格安で食べられる。ただ醤油と山葵は不味い。
三本マストのジャンク船は実物の十分の一くらいの大きさだろうか、各地の博物館にある模型や写真と少しも変わらぬ立派な造りだ。船腹は赤く塗られ船首船尾には絵が描かれている。何日もかけて村々を巡航してきた船はいよいよ航海に出る準備をする。乗組員の人形が適所に置かれる。船将らしい威厳のある人物は部下を従え船尾楼に、短い上着に裸足の水夫たちは櫂に並んでいる。豚小屋、馬小屋、鶏小屋などノアの箱舟のように動物たちが積まれている。調度品、食料、長い航海に必要なものがすべて用意される。
 艤装が終わると船は砂浜に引き出される。1メートルそれ以上の厚さで紙銭・冥土で死者が使う紙幣が積み重ねられている。葬式やお祝いなど事あるごとに人々が捧げる紙銭を保管しておくのだそうだ。船はその上に碇を降ろす。船には赤い提灯が灯され、周りからも色鮮やかな光で照らされる。人々は正座して祈りを捧げる。
 点火されると後は短い。みるみるうちに火は船体を包み込み、マストの先端まで炎が上がってやがて崩れ落ち、乗組員も動物たちも煙にまかれて船とともに燃え尽きる。しかし紙銭はくすぶり続けて白い煙が幾条も立ち並んでいる。しばらく人々は余韻に浸っているが三々五々帰っていく。
 翌朝は白い灰だけが砂浜に残っていた。疫病は天に戻ったのだろう。  

媽祖巡行3月頃 台中大甲廟が最大

 媽祖は海の女神で台湾・福建各地に廟がある。9世紀の女性で神通力を得て航海や漁業の守り手になった。誕生日に合わせて媽祖が千里眼と順風耳という鬼のような家来を従え各地の廟を巡行する、それに信仰者も同行する。大甲廟媽祖は320キロも巡行する。全行程を同行してもよし、都合のいいところで離脱してもよし、行列は延々と続いていく。
 数人で担ぐ小さな神輿の中には媽祖像が安置され、崇拝者は道路に寝そべって神輿にくぐってもらう。町近くになると道路の中心線にずらっと人が一列に横たわる、子どもを抱いた母親も多い、神輿は平然とその上を通過していく。
 接待所が点在している。大小のテントが道端に並んで飲み物、果物、食事、仮眠を提供している。さあさあ、どうぞと招かれてブュッフェの料理で満腹になり、スイカやマンゴーを食べ、アイスクリームと甘いお菓子をもらい、コーラを飲みながら行列に戻る、そんな毎日が過ごせる。
巡行最後の日は廟に戻る媽祖像を盛大に迎える儀式がある。長い行列をしてきた人は満足と疲労で道端に座り込んでいる。

台湾燈会 春節期間 毎年開催地が変わる 2019年は屏東

 ともかく会場が広い、行けども行けどもランタンが灯っている。巨大なものから足元にひっそりと置かれた手作りの小動物まで、どれも派手な原色だ。
今年のメインランタンは大きなマグロ、様々に色を変えて回転する。本来は干支の猪・豚なのだが土地柄で魚にしたそうだ、ブタは他の場所にたくさん飾られている。観光案内所ではブタのランタンの組み立てをお土産にくれた。 
 長崎ランタンフェスティバルのような春節にちなんだ吉祥とか伝統的な人物像とかがあまりない。見物人の目をひくように新奇なランタンを作って前年の開催地に負けまいとする意気込みが感じられた。伝統や宗教にとらわれない台湾の自由なアートパフォーマンスなのだろう。
 巨大な海の女神は不気味だった、空中にはクラゲが泳いでいる、こんなところが開催地らしさなのか、ただし龍はお定まりだ。ずいぶん歩いたが案内図を見ると全体の半分も見ていないことが分った。
 日本からも出展されている。定山渓や名古屋がここぞとばかりに観光PRをしている。メインステージでも千葉の銚子太鼓が参加していた。女の子のパフォーマンスが拍手を取っていた。
 最後は花火だがこれを見てしまうと高雄に帰れない。直通バスは無料なのだ。
 

 塩水蜂炮 ロケット花火祭り 旧暦元宵節

 2日間、町中に爆竹とロケット花火が飛び交う。塩水は交易で栄えた町で昔の繁栄を残す老街は落ち着いたたたずまいを残している。人の交流が盛んだっただけに疫病も流行して、110年前にコレラパニックが起きた時、関帝廟のお告げがあって始まった行事だそうだ。元々は春節の爆竹に由来しているのだろう。
 夜になると大変だ。町の区画ごとに膨大な花火が用意されている。大きな人形や塀のような仕切りを建てて、ぎっしりとロケット花火を埋め込む、それを砲台と呼ぶ。自転車にロケット花火を積み込んだ砲車もある。家ごとに爆竹も大量に用意してある。夜になるのを待ちきれない人たちがたくさんいて、朝から昼から爆竹を鳴らし続け、町を硝煙で包んでいる。
 観光客も多いので、あちこちでヘルメットと防御服を売ったり貸したりしている。分厚い生地で宇宙服のように全身をカバーし兜のしころのように首筋を保護している。もちろんTシャツ半ズボンで参加してもいいのだが商売人たちはありがたく忠告してくれる、危険です。そんな衣装を着せて爆竹をいっぱい仕込み自爆させてくれるコーナーもある。早めにシャッターを切らないと煙に包まれて何も写らない。
 いよいよ夕方になる。神輿に関羽神像を載せて数人が担ぎ出発する。それを見送って関帝廟では町最大級の砲台をぎっしりと密集した人たちに噴射する。後ろに逃げる人と前へ進もうとする人が押し合いへしあい、そこに容赦なくロケット花火が飛来する。濃い煙に包まれて息もできない中を赤く炎を引いて花火が向かってくるのは恐怖だ。かなり年配のご婦人も前列めがけて進んでいく、火傷や怪我をするとそれが厄落としになるのだそうだ。砲台や砲車は夜中まで噴射する、スケジュール表があって時間は正確だ。
 ランタン飾りや民俗芸能のステージ、盆栽展もあるそうだが、早く風呂に入りたい気持ちの方が強い。

青山王誕

 三国時代の呉の張将軍を祀る青山宮で善悪を正し疫病を除ける霊力がある。謝将軍と范将軍という2人の部下が近辺を取り締まっているので治安がいいそうだが、ここは旧日本の大正以前の銀座のような煉瓦街で裏通りには客引きと街娼が立っていた、ずいぶん取り締まられたらしいが、それも情緒ではある。
 武神らしく厳しい神像を載せた神輿が町を巡察する、爆竹が先導し獅子舞と七爺という仮面の神様・竹馬をつけた巨人だ、八家衆というのは鬼の隈取をした半裸の属神たちが従う。先頭を行くのは斉天大聖孫悟空、ヒョウタンを持ち健気に歩くが時々疲れてしまって座り込む、10才くらいの子どもだ。
 神輿が青山宮に戻る時がクライマックスで熱狂的に爆竹が響き渡る。
 
 

葬式

 葬式の習俗は各国各信仰により異なるので興味深い、宗教以前の古い畏怖もよく顔をのぞかせている。
台湾は基本が仏教、大陸の儒教は混じっているが韓国のようにゴリゴリの儒教ではない。家系を重んじ故人を思慕するのは同じだがブラスバンドやポールダンスが入って賑々しく執行する。泣き女が先導し銅鑼や爆竹を鳴らしながら派手に葬列が進んでいく、赤ん坊のときは泣きながら産まれたので死ぬときは笑わせてやりたいという発想で、コメディアンが芸を見せて笑わせたりする。
故人が獲得したもの、または得たいと願っていたものを紙で作って飾る、これも世界中にかなりある。立派な家、車、冷蔵庫など飛行機の模型は旅行がしたかったのだろう、祭壇に置かれる。
葬儀が7日間、その間は死者の魂魄は留まっていてお経を聞き家族のことを思っているからだという。葬式を盛大に行うのも死者にその様子を見せ、いかに親思いで誠実な家族であったかということを知らせるためだという。近隣の人々にも周知しなければならない、冠婚葬祭は地域行事なのだ。
いよいよ出棺となると近所の人も通りがかりの人も飲食を供される。精進ではない、普通の料理だ。故人ともに会食するのだからこの方が自然だ。
 マルクスは若い頃に宗教は阿片と言ったが当時の阿片は公認された鎮痛剤だった。この言葉は宗教を容認し苦しみを和らげる効用を認めるようだ。だから反革命なのだと弾劾するのだが中国でさえ葬式は昔ながららしい。むしろ日本の方が散骨や樹木葬と脱宗教化している。コロナの騒動で死者との別れの演出が変わった。定着すればいよいよ葬式は簡略になり儀礼は手続きだけになる。